フェルメール「真珠の耳飾の少女」

世に特別な評価を持つフェルメールの作品に、わたしは全く共感するものがなく、実は困っている。昨今は自分の好みと離れていても、水準を越えた力を持つ作品には何らかの感慨を得ることができる鑑賞眼が育ってきたと思っているのに、こと、フェルメールに関してはなにごとも感じない。
ポスターなどで見るときにはあの静かで緻密な絵に魅力を感じる。だから、何年か前に、彼の主な作品がオランダとの国交何百年だかを記念して一同に集まった展覧会で、作品そのものの前に立った時に得る感動を楽しみに行って、あれ?と肩透かしを食らって帰ってきた時は、たまたま、久しぶりに会う友人も交えて集団で遠路行ったため、遠足気分が絵画鑑賞を邪魔したか?とも思っていた。
それで、今年の秋に再び、彼の絵(「画家のアトリエ」)が東京都美術館に来た時に「リベンジだ!」と勢い込んだ。その時は、普段、芸術について話が弾む友人が先に観に行って「観たら感想を聞かせて」と興奮していたので、さらに期待満々で行った。が。
なにも感じなかったのである…。何も。まさに、何も。なんなのだろうか。未だ、謎である。
あまりに何も感じないので、逆に気になって、同時期に公開されていたフェルメールの絵を主題にした映画「真珠の耳飾の少女」を見に行った。そうすると、映画は良かった。フェルメールの緻密な絵の世界をそのまま映像で表現しようという製作者の心意気が、心意気のままに隙なく現れており、その力が作品を高いところへ導いていると思った。
画家と女中(少女)と画家の家族とパトロン。少女の恋人。それぞれの人となり、間に生まれる関係、そして感情、全てが一定の緊張感を持って静かに現れるのを観ているのが心地よかった。
恋や芸術の高みへの憧れ、それらに結びつく性衝動。登場人物それぞれの生活のうえの立場。そうしたものが絡み合う様が絵画と見まがう美しい画面で表されているのを、ほとんど口をポカンと開けて、うっとりと見入っていた。
小道具の使い方も絶妙で。絵の具を調合するということ。それをする能力を持った女中と持たない画家の妻。耳朶に突き刺さる針とぶらさがる大きな真珠。髪を人目にさらさないということ、頭巾とターバン。
映画がとてもよかったので、原作本も読んでみた。初めは翻訳の文章が読みにくく、途中で読むのを止めそうになったが、あえて集中して少し読み進めるうちに主人公フリート(映画ではグリートだった覚えが)の語り口調に引き込まれる形で小説の世界に浸かるようになった。馴染んでしまうととても居るのが心地よい世界だった。結末を急いで知りたい類の話ではないので毎日じっくりと少しずつ読み進めて、日々、16世紀のデルフトの街、画家のアトリエと自分の日常を行き来しながら楽しんで、最後に残り4分の1ぐらい、クライマックスを一気に読み終えた。
内容の印象は映画と大筋において変わらないが、映画よりはもう少し詳しく深くフリートの心理に入ることが出来るので、作品が扱う主題(芸術や恋といかんともしがたい日常の対比など)により深く浸ることが出来る。映画はフリートとフェルメールの関係に力点を置き、原作よりもロマンティックに描いていたので、強く、甘い感情を味わうことが出来るが、小説の方は現実には果たされない恋や芸術の高みと、現実に、ここに居る、人の立場や生活の対比がはっきりとしており、むしろ果たされない恋よりもそれがこの現実において果たされないという事実を浮かび上がらせることに文学的な視点を置いていると思った。