正法眼蔵を読み始めたきっかけ

わたしが「正法眼蔵」を読むことになった始めに、南直哉氏が在る。
何年か前、仏教を本格的に学び始めた流れの中で南氏を知り、彼の、現象を言語で切り取る鋭さにたいへん魅了された。
中でも、強くわたしを捉えたのは、仏教徒として在ることを「賭け」であるという言い方だった。
何かを定めて信仰することを強く求めながらも、生来の懐疑的思考ゆえにできかねていたわたしにとっても「チップを張る」とはまさにそうだなぁと、そして、そこを張り切れずに右往左往の自分の先達として見習おうと思った。
ただ、深く信用している友人にその話をしたら「信仰なんだから賭けてはダメでしょう」といわれ「あれ?」と疑問符が付いて、熱狂していたのが剥がされた感じになった。
ちなみに今のわたしは、やはり「賭け」てはいけないと思っている。
確信を得て、賭けなくても済むようになるまで自分で考えるのが信仰については筋ではないかと、今は素直に思っている(ただ南氏の場合、仏教徒であることにチップを張らなければ死を選んでいただろうという切迫した状況があったと著書で読んだので、考えている余裕はなかったのかもしれないが…)
小さな疑問符がついたといっても、その頃は、夢中で著書を読んで、月一回赤坂で開かれる「仏教私流」と題した講義に通っていた。
この講義がまた、南氏が鋭い言語感覚で次々と明らかにされるこの世界の在り様が、わたしが認識している世界とよく重なって「そうだそうだ、これだよこれ、まさにこのように言いたかったのだ!」と興奮しながら受け止める刺激的な時間を過ごしていたのだけれども・・・
ある時、仏教の根本的な教えに関する言葉の説明について、それは違うのではないかと思うことがあり、疑問を解決するべく、ご本人に質問することも含めて、わたしとしてはいろいろと試みたが、どうしても解決することができなかった。
ここで「正法眼蔵」に戻ると、その頃、南氏に影響を受けて当然のように道元禅師にも興味を持っており、南氏の著作「正法眼蔵を読む 存在するとはどういうことか」を読み始めていたが、南氏の説明について出たわたしの疑問が仏教の教えの根本的なところだったので、そこを解決できないまま南氏の見解を通じて道元禅師を理解するのはどうかと思うのと、むしろ南氏から離れて、南氏にとっても源であるところの道元禅師を理解したほうが南氏に対する疑問を解くことにつながるのでは、と思うようになり、それなら「正法眼蔵」を自分で直接読んだほうがいいんだろうなーと、ぽろっと口に出したところ、たまたまそれを即座に拾い上げる人が向かいの席にいて、あれよあれよというまに読書会立ち上げに至った次第。
読書会の方は開店休業中で、遅々として進んでいないのだけれども、これがあるおかげで、いろいろな勉強が進んできた。
現在、勉強を始めた頃には思いもよらないような境地に至っていて、振り返るとしみじみする(悟りに近づいたとかそういう深遠な話ではありませんが)。
とりあえず、南氏に関する疑問は未だ解けないままだが、ここまで導くきっかけとなっていただいたことに感謝して、疑問の解決はあきらめて先に進もうかなと思うこの頃なのでありました。