『能はこんなに面白い』刊行記念イベント 於観世能楽堂

イベントの構成は、観世流宗家による仕舞「井筒」から始まり、贅沢にも宗家直々に謡の指導(!)、内田樹氏の合気道演舞(解説付き)、休憩を挟んで、松岡心平氏が合流してのトークと、盛りだくさんの二時間だった。
イベントに行ったのは内田氏が目当てだったので、能に関しては何も知らないに等く、よくわかっていなかったけれども、実は何気にすごい内容だったのではないかしら、と、終わってからいろいろと調べてみて思ったり(能楽堂で宗家直々…)。
まぁ、ほんとに何も知らなくて。どれくらい知らないかというと、仕舞って何? なるほど「能の一部を面・装束をつけず、紋服・袴のまま素で舞うこと」ですか、てな具合。
もう少しウィキペディアから引用してみると「伴奏は地謡のみによって行われ、装束・面は用いず、紋付袴か裃などで演ずる。演者は、本来の指定にかかわらず最初の一句を坐ったまま謡い、次に立ち上って舞い、最後に打ち込みと呼ばれる型を行って坐って一曲を終える。謡はほとんどを地謡が取るが、なかには演者との掛け合いになっているものもある。上演にあたっての時間はきわめて短く、平均で十分程度、長くても二十分ほどのものである」とのことで、確かにその通りだったなぁと思い返す。
能をまったく観たことがないというわけではないが、とても久しぶりで、今更ながらだが、というか、今となってみれば、とても興味深い体験だった。
宗家による仕舞が始まった瞬間、これは、個を世界に向かって開くことによって現出するものを観るという意味において、瞑想と同種のものだなぁと、わたしは思った。
内田氏の解説によると、能舞台には空間の濃淡のようなものがはっきりあるといい、それを感じながら演者は動く、ということで、そういうものをわたしの身体感覚ではまったく感じることはかなわないが、宗家の動きを導くものは、確かに、内ではなく外にある、ということは観ていて感じた。
よく描かれた絵画のように、動きのひとつひとつが世界のあるべき場所にはまっているということがわかると、以前なら眠気を誘うしかなかった静かな動きが緊張感に満ちていてひきつけられる。
素人考えだが、同じ伝統芸能でも、歌舞伎とは演じる動機が違うのだなぁと思った。能は演じるというよりも作法なのかな(というようなことを内田氏が常々おっしゃっているような、実は著作の刊行記念のイベントに行っているのに、まだ著作は読んでいないという片手落ち)
歌舞伎はまさに文学表現で、この世界の現象のエッセンスを形にしているのであり、でもそんな歌舞伎の中でも、現象から跳んで世界そのものを体現するようなタイプの演者を、わたしは好んできたのだけれども、こうしてみると、能とは、わたしがあらゆる表現に求めているものそのものを、直接現前させるための研ぎ澄まされた方法なのか? うーーーむ?? ちょっと興味津々になってきた。
今回、初めて見知った観世流宗家は、軽やかにお話になる気持ちのよい方で、ますます興味が津々・・・。
そして今回、強く思ったことは、能も合気道も、見ているのでは蚊帳の外、自分でやるのが何よりかー、きゃー・・・・・・(腰の重いわたしなので、そうは言っても、よし、お稽古に行こう!という覚悟がねぇ…)。