「かぐや姫の物語」

高畑勲氏の作品に、過去、共感できたことがなかったので「かぐや姫の物語」も見に行くつもりはなかったが、ありえないような映像美と聞いて、それなら見ておくか・・・と。
結果は、盛大な期待はずれに終わった。
映像は、それは、普通ではないような手間がかかっているであろうことをうかがわせる。そして過去ありえない斬新な手法、なのかもしれない(よくわからない)。しかし、わたしにはただの動く絵だった。そこに圧倒的な美のオーラというようなものは全く見出せなかった。
唯一、冒頭のかぐや姫(竹の子)が出現したときの笑顔は、そのまじりのない清浄さに心を奪われ、期待が膨らんだが、一瞬にして終わった。
見始めてすぐにわたしの心に浮かんで、終わるまで去らなかったのは「意図が透けて見える」という感覚である。
わけのわからないものと格闘した挙句、無意識のところから出現した何か、とわたしは出会いたい。でも、この作品は始めから「これを」と作者が示したいものがただ示されているだけに思える。こういうのを思想的な作品というのかな? わたしは作品に思想を持ち込むヤツはキライだ。そして彼が示すものが、やっぱり、わたしの思いとは真っ向から対立するわけですな・・・。
ところどころ、感情が揺さぶられて涙がにじむようなところもあり、そこそこに感情移入もしたからこそ、よけいに「透けて見える」という感じが、座りの悪いものとして残ることになった。
わたしが気に入らないのは里山の暮らしが是、都の暮らしが否、また、天人の世界が否、人間の感情が穢れではなく是、の単純化、だいたい、始めの主張と後の主張は矛盾しているのではないかと思う。人間の感情が是ならば、都の暮らしは是、だと思う。都というのは人間の感情が行き着く先でしょう。里山(自然の中)での暮らしは、美しいばかりではないから、人が心安らかなることを求めた結果、表出するのが都(都会)という場所であるわけだし(もちろん、現状の都会が行き過ぎているという問題はあるにせよ)。
また人間の感情が穢れであるというのはある側面では是だし(人生は苦であるわけですからね)、穢れであるという主張をただ否というのは浅いよ。
穢れではあるけれども、それが人間なのだと受け入れるときに愛が生じる。そう、愛だよ、問題は。この作品のどこにも愛を感じない。物語の中の登場人物の間にも、作り手の動機としても。なんだかわからないが、あふれ出てきて偏在するに至るものがない。ただ、意図が透けて見えるだけ。
結果、つまらなかったという感想に至ったわけでした。