「奇談 キダン」(諸星大二郎「生命の木」)

(微妙にネタバレあり)
諸星大二郎の「生命の木」が映画化されたというので興味津々、観にいった。結論。ツマラナイ映画だった。しょぼん。
諸星大二郎は若い頃に一時期凝って、短編を立て続けに読み込んだ時期があった。彼が扱うテーマや表現によって目指す場所はわたしには根源の部分で重なる(と自分では思っている)ので興味をそそられるが、波長がいまひとつずれるところがあるのか、結局はわたしの人生の一部になるほどの執着は生まれず、当時買い揃えた本は後に全部手放して現在は手元に一冊もない。それでも中で強く印象に残っている作品がふたつあり、ひとつはタイトルを忘れたけれども、無機物と有機物が融合して最後に老人が「もうこれで体の痛みに苦しまなくてもいい…(正確な台詞はうろ覚え)」とつぶやく作品と、この「生命の木」だった。実は「妖怪ハンター」シリーズは彼の作品の中ではいちばん凝っていた、というか、単に稗田礼二郎に「萌え」…だっただけなのですが、シリーズの中で「生命の木」は萌えを抜きにしても、生命の木に関する話も論理的に筋が通っているのが興味深かったし、ラストのうごめく表現は文句のつけようがなく、強く心に残った。
それで映画ですが。観ている間、退屈はしなかったのねぇ。でもそれはわたしが原作をうろ覚えになった状態で観たので、面白いと感じたのは全て原作に依る内容であるわけですよ。だから原作を隅々まで覚えている状態で観たら退屈だっただろうという出来だった。その上肝心の結末のシーンなんだけども、原作の視覚をそのまんまVFXで表しただけだったのでつまらなかった。確かに実写で動いているけどさ、う〜ん。映像化している人があの表現の直中に入り込んで、もうひとつ突き抜けて表現したものを映像で観てしまったら存在の根源といえる部分を揺さぶられて腰が抜けるほどの衝撃だと、それを期待して観にいったんだけど、ただ原作のシーンがVFXで動いているだけだった。そんなの観てもおもしろくないよ…。そして映画オリジナルの付け加えたエピソードはあれは話の本質と全く絡まない上に、あのエピソードの内容だと「この映像を作っている人は原作の意味をわかっていないのではないのか?」と思うのは、わたしが読み違えているのかな?*1
観終わってすぐに原作を買いに行った。ラストシーンは今読んでもひきつけられる。漫画は動いていない。しかし「いんへるの」に異形のものがうごめいているのが解かる。そして彼らが救われて昇天したのが解かる。諸星大二郎によって引き摺り出された表現を、映画はただなぞっているだけだった。もったいない。せっかくこんなスゴイものを扱うのに、映像で表現し直す過程で、もう一度、引き摺り出して欲しかった。厳しいことではあるんだろうけど。
それにしても原作を読み返すと、映画は加えられたオリジナルエピソードがあるのに、原作にある必要な要素が削られていたように思う*2のだけれども、何の意図があるんだろう…? わたしが見落としただけか? 
「萌え」の稗田センセーですが、長髪が気に入っておったもんで、なぜに阿部寛は坊主頭? まー実写で原作の髪型はちょっと厳しいものがあるかもしれないけれどもねぇ。
今回買った原作は文庫本なのですが、字が細かくて読みにくいこと甚だし〜。元来漫画の文庫本は絵が小さすぎてキライなので買わない主義なんだがちょうど妖怪ハンターシリーズがまとめて文庫で出たところ(というか、映画にあわせてるんだろうな)だったので手っ取り早くそれを買ったわけなのでした。

*1:だってさ、はなれで人が死なないのは彼らがじゅすへるの子孫だからであって別にあの地の時間が止まっているからではないと思うんだけど? それともあれには映画なりの何か意味があったのに、わたしが読みきれていないのか? それに神隠しにあった子どもたちはじゅすへるの子孫ではないのだからいんへるのともぱらいそへの昇天とも関係ないし、それを言い出すと神隠し自体がそもそもエピソードとして出てくる意味がようわからんのだけど。

*2:ケルビムの話、はなれには墓がない話