「クレー展」

クレーといえば、何で名前を覚えたかというと、森脇真末味さんの作品(たぶん「ブルームーン」? ちがうかもしれないけど、英一と英二の出てくるシリーズであるのは確かだ*1)の中で出てきたからだった。同じようにユトリロの名前を覚えたのは萩尾望都さんの「メッシュ」だったり。そんな風に間接的に記憶に刻まれるものやことというのが時々あります。余談ですが。
昔はクレーのようなタイプの作家にはあまりそそられなかった。何がといって、ふわっとしている感じ? キリキリと強い印象があるものに惹かれる性質だったので。でも今のわたしだとチラッと見たところの観念的な感じに何か得るものがあるかもと思い、楽しみにして行った。
結論から言うとそれほど大きなものは得なかった。彼は詩人でもあったのですってね。それを知ると詩人がことばで世界を切り取る時に行うことを彼は絵を描くときにも行っているという感じが伝わってきて、なるほど詩人の絵なんだなぁ納得したり。
詩人が世界と対峙して言葉を選ぶ時にそこに過程はないと思う。従って他者もない。世界と己が直に結ばれた瞬間に零れ落ちてくることばをひろう。クレーの絵からわたしが受ける印象がそんなものだった。
「観念的」という期待は違ったらしい。わたしが観念的と思う時に期待する感じというのは、直感的であるけれども現れたものには他者にも共通する論理的な表現がある。
クレーにはそういうものは感じなかった。その意味を言い換えると、表現に現れたものすべてが内面的な風景に満ちていると。同じ抽象表現でも、そういえばピカソだと常に視点が外を向いているのだなぁと思い返したりしたのだった。
(2月17日にはしごして鑑賞)

*1:森脇真末味*クレー」で検索したら「ゼネツィオの庭」だった