「屋根の上のヴァイオリン弾き」

市村正親さんは動きやセリフのノリがよく観ていて楽しかった。でも、彼の舞台に時に現れる世界が割れるような一瞬というのは今回はなかった。話としては特にラストのラストのシーンで、絵としてもそれが現れてもいいような場面があったけど、今回はするっと流してしまった。
この有名な作品をわたしは初めて観たのだけれども、ひとつひとつのエピソードが段階的に広がっていって、より高次で複雑な問題を提示する流れがとてもわかりやすく、よく出来た作品だったのだなぁと感心した。
人間が生きるうえで何を許容して何を拒むのかを描き、生きるとは?を信仰の視点から問う。悩みながらもひとつひとつ「愛ゆえに」許す父がどうしても越えがたい一線がある。それでも最後には最大限の許しによって一線のギリギリまで立ち至る人間の愛の深さに胸が詰まる。
しきたりを守ることで平穏な暮らしを守ろうとする人々の中で若い世代は「世界は変わったのだ」と自分の意思に従って恋を成就させようとする。若さゆえの情熱で親の世代の存在意義を根底から否定する様子がなんとも切ない。どちらの世代の気持ちもわかるわたしは観ながらハラハラした気分だった。
頑固親父のドタバタ話としてコミカルに始まった作品が後半に入ってユダヤ民族の問題という大きな歴史的事件に広がっていくのも見応えがあり。ことここに至り、守ろうとした平穏な生活の全てが覆されて、流浪の身の上に放り出される人々は「メシアはまだ来ないのですかねぇ、もうそろそろ来てもいい頃だと思うのですが」と開けっぴろげな調子で聞きながら、起こることをそのまま引き受けて旅立ってゆく。神さまは居るのならなぜ人間を苦しみのままに放っておかれるのかなぁというのは常々のわたしの疑問でもあり(とはいえ、今となっては神の論理と人間の苦しみはまた別のところにあるのやもという認識もあり、この疑問に執着する気分は薄れてしまっているのだけれども)、ひたすらに神にその身を預ける人々の素直な疑問の言葉には涙が体の中心を流れ漏れるような気分になった。
でも全てが覆されるラストには、三人の娘に対して父親が「ふたりは好きあっているのだから」という理由で結婚を許したことは最大の吉だったと思える(結局全員が一文無しでいちからやり直しになったし、そんな時、自分で選んだ好きな人と生きること以上に力になることなぞないのだから)のが、歴史的事実は暗くとも、その中で人は幸せに生きることも出来ると示唆する希望のラストシーンで、いい話だなぁと思ったのであった。
それで、この作品は市村さんではなく他の役者さんで観たほうがより作品の内容に深く入ることが出来たかもと思ったり。わたしが市村さんを観るとき、市村さんが市村さんであることをつい強く観てしまうので、このよく出来た作品を味わうにはそこのところが邪魔になっていたかもしれない。そうは言っても、わたしに関して言えば市村さん出演でなければ観にいかなかったともいえるのだけれどもね。