「セブン・イヤーズ・イン・チベット」

ずいぶん前にTV放映を録画して観ないまま放ってあったのを見つけたので観た。
全体的に大きく感動することはなかったけれども、幼いダライ・ラマのまっすぐな瞳には感じるものがあった。踏み躙られる弱いもの。しかし、本当に強いのは誰か。やたらと権威を示そうと居丈高な「強いもの」が相対的に不安定で哀れなものに見えてくる。踏み躙られてなおそれをよしと自らの意志で受け入れる弱者の生き様は至高でうつくしい。反撃をせずしかしその場から逃げることはなく立ち向かい、そうすることで相手をも受け入れてただそこに在る。これはつまりガンディーがいうところの非暴力闘争なわけだけれども、この場合、力をもって制しようとしたものが問われるのは自分自身であり、非暴力である相手を踏み躙るということはつまり自分自身を叩き潰すということなのだから、そのことに気付けば踏み躙ることは出来ないし、気付くことが出来ないものはすでにその時点で人間として負けていると思う。そんな状態で人間であることが正しい幸福につながるとは到底思えないから。
しかし自分が弱者であるときに非暴力で闘争する(ということは生きて在るあらゆる痛みをその一瞬にこの身で受け止めるということであるからして)覚悟があるや否や?は大いなる疑問であるわけでして、不甲斐ないこの身を心許なく思うわけであります。