「レオナルド・ダ・ヴィンチ展―直筆ノート・レスター手稿」

ダ・ヴィンチに共鳴する。時も空間も超えて彼がここに在るのを感じる。息遣いすら感じる。とうに亡くなってしまった人をこれほどリアルに感じるのかと思う。
フェルメールの絵に何も感じ得ない*1というのと反対の意味で、ダ・ヴィンチの絵の前に立つときは、絵がそこに在るという以上の何事かを感じる。絵を描くときにダ・ヴィンチが見ていたもの。婦人の顔を描きながらそこを超えて見ていた何かが在る。それがわたしが日々見ているものと同じなのだ、この人は、わたしと同じように世界を見ている、と、確信する。
世紀の大天才に向かってなんとおこがましい、なんなんだこの妄想は?と思いながらもそれが正しいと確信する自分がそこに居る。
彼が見ているもの、とはつまりこの世の視覚では捉えられないものであり、それを彼はこの世で見えるものを表現することによってこの世に現そうとした。画布に現れた婦人の顔は婦人の顔でありながら、ダ・ヴィンチの筆によって描かれたことで、婦人の顔であるのとは違う何かを表す。ダ・ヴィンチにとって、大切だったのは婦人の顔ではなくてその先の何かだったんだと思う。わたしはそのことにひきつけられる。
そしてその「現そうとした」ことについて完璧を目指すことに一切の妥協を許さないという意味おいて完璧だった、その力技が大天才の大天才たる所以であり、彼の偉大なところ。同じものを見ているからといってその偉大さには到底届かない、故に、ダ・ヴィンチはわたしのアイドルなのであります。でも崇める気持ちは全くなくて…。ものすごく親近感を感じて愛しい。いいのか?そんな大それたことで??と何度も自分にツッコミつつ。
というわけで森アーツセンターギャラリーで開催中の「レオナルド・ダ・ヴィンチ展―直筆ノート・レスター手稿」に行ってきました。ダ・ヴィンチ手書きのノートっていうのでどんな感じかなと思ったけど、手帳の形ではなく紙が一枚一枚広げてアクリル板に挟んでそれをさらにガラスケースの中に展示という状況で見るので、障壁が多すぎて、直接切り込んでくるような感慨は得られず。それでもじっくり見ているとじわじわと「これを実際に触ったはったんやなぁ」と思ったりもするにはする。
下調べナシで行ったので会場で知ったのだけれども、ビル・ゲイツ所有なのねぇ。公共の施設ではなく個人所有という点はちょっと感慨深かった。
会場で興味を引いたものがふたつ。ひとつは手稿のファクシミリ版。「ファクシミリ」って何や?と解説をよく読んでみたら、つまりは「原画’(ダッシュ)」*2なわけですね。精巧な写真と印刷の技術で再現した手稿。これは手帳の状態に作ってあるものもあった。原稿も実物と見分けがつかないように再現されている。これを一生懸命作っている研究者の人がいるらしい(楽しそうだな〜)。
もうひとつはダ・ヴィンチの生涯を図説する展示コーナーで見た彼が数学者のために描いたという黄金比を図形で表す挿絵(展示はレプリカだったんだけども。そしてちゃんとメモしてこなかったので黄金比だったかどうかうろ覚えだったり)。緻密な図形に綺麗に装飾が施してあり、その図形の緻密さと装飾が綺麗なことに愛らしさを覚えた(ぜひとも欲しかったのに〜、ハガキもなかったし図録にも載ってなかったよう)
ダ・ヴィンチが自然を探求する時、ここから自然に向かっていったというよりは向こうから自分の考えが自然においてどう現れるかを探していたのだ思う。彼にははっきりと見える(わかる)何かがあって、それをそのままここで直接説明することが出来ず、この世で見える形に表すにはどうするのかを知るために自然を探求していたのでは?と。だから興味の範囲も多岐に渡っているのだろうと。
ドライブしているときに思った。実際の道路と地図。地図は道路を表したものだけど、道路そのものではない。人は道路を迷わずに行くために地図を使う。でもわたしは地図を見て道路を知る。いや、ふたつのことは同じことなんだけどね、自分の意識が無意識のうちにどちらを向くかというときに、人によって、実際の道路に意識を向けてそのナビのために地図を見る場合と、わたしの場合は地図の方に意識が向いて、地図と実際の道路が同じだということを喜んだりする…。ダ・ヴィンチレベルになるとその地図を何もないところに自分で書く。
わ〜! うまく説明できていませんね。つまりは形而上とか形而下とかそういう話になるんだろうな。わたしにもハッキリと解っていることがあるのですよ。それをどうにか何かの形でうまく表すことが出来ますように。現在修行中の身なのでありました。
とにかく!わたしはダ・ヴィンチが好きだ〜!というお話でした(そうなのか?)。