「博士の愛した数式」

わたしの能力が文字と言葉と文学に偏っていたので、長い間数学とは無味乾燥な学問だった。そこにどんなロマンも見出すことは出来なかった。長い学校生活の中でひたすら公式を「暗記」し続け、苦しめられてきた。
ずいぶんと大人になってから数字が独自の意味を持ち、この世界を言葉とは違った形で表わす体系を持っており、それに沿って進んでいけば世界の形が現れるのだと知った。公式とはそこに数字を当てはめて問題を解くために暗記するものではなく、その公式がいかなる場合においてもそのように成立するということに意味があるのだと知った。自分の長年の、出発点を間違った不毛な努力を思い返して哀しくなった。数学が抽象的な概念を論理的に表すのにむしろ言葉よりも鋭いのだろうということも知った。でも数学によって切り開かれる世界は未だわたしの前にその姿を明確に表すことはない。わたしには数字を数字として読む能力に欠けていることが解る。わたしは抽象的な概念を考えるのが何よりも好きで、それをより鋭く表す形があることがわかったのに、それをわたしは使えない。訓練によってある程度までは行けるのか? でも求める高みに登るのはムリなんだろうなぁ。
そんなわたしにとってこの作品は幸せな時間をくれた。文学による数学へのアプローチ。その愛の表現は暖かさとうつくしさによって完成されている。堕ちてしまうに足る傷を持っていても人は静かに暖かくここで生きることを耐えることが出来るということ、それを支える真実の力、そこに至る手段としての数式の美。わたしが数字に見向いてもらえなくとも数学に見出したうつくしさを、わたしに与えられた唯一の能力である文学を読むという形で味わうことが出来てとても幸せだった。