「夕凪の街桜の国」

こうの史代さんの「夕凪の街桜の国」を読んだ。最近あちこちで話題になっているのを目にしたのでタイトルは知っていたが、その表紙を見る限り、日常の話が綴られているほのぼのとしたところが受けているのかなと勝手に思って特に興味をそそられなかった。昨日、紀伊国屋のコミックコーナーを流していて平積みになっているのを手にとった時、それが「ヒロシマ」の話だと知った。これは読もう、と直感的に思ってレジへ持って行った。
女の子が夕方、夕日を見上げながら家路へ帰るという風情がやわらかくうつくしい色調で描かれた表紙の静かさと「ヒロシマ」というギャップ。静かな日常に重なってくる惨状の描写。今ではないのに今でもある。「死ねばいいと誰かに思われたということ」という言葉が突き刺さる。ただ生きていてさえ時に生きることが苦しくなるのにそんな得体の知れない悪意を抱えながら暮らすとはどういうことだろうと思う。「しあわせだと思うたび、美しいと思うたび、すべてを思い出す」それでも人間は人と人との関わりの中でしあわせになろうと力を出すことが出来る。だけどそれも奪われる。
わたしがかつて「戦争は悪、平和であるべき、戦争反対」と単純に思っていたのは、そう教えられたからだ。学校で。でも毎日の暮らしを積み上げていたら生きているということはそう単純なことでもないと感じるようになる。そうすると考え出したら切りもなく答えもでないような問題には、ましてや生存に関わる痛々しい悲惨な話には自分が当事者でもないのに関わりたくないというのは人情だと思う。わたしの場合は、それはいったいなんなんだろう、という、言い方は悪いが好奇心の方が少し勝るので、平和とは?と折に触れて考えるけど、自分の日常を基準点にして考えれば考えるほど「わからない」という迷路に突入することになる(そして考え続けるわけなのですが)。だから「わからない」迷路に突入することを回避して、あるいは、「わからない」になるまで自分のこととして考えたこともなく、ただ盲目的に「戦争反対!」とか言う場面に出会うと、そんなこと考えてもしゃーないやんと言われる場面に出会うよりも脱力感を得る。「盲目的に」平和がいいと言うのなら、それは盲目的にお国のためにというのと何らかわりはないやんか、と思うから。でもそういう動きがあるからそれこそ一気に世の中が不穏になったりするのを止めているということもあるのだろうし、それは個人の思いを超えた歴史のバランスみたいなのでもあるのかなと思ったり、だから個人がそれがよいと思ってすることはそう思う限りそれでよいんだろうと思うけど、わたしは今はそこには踏み込めない。
「わからない」迷路に突入したときにそこを回避しようというのは常識的な判断だと思うけど、時にそれがなんなのか見極めようとそこで踏ん張る人から生まれるなにかがある。そういうものはわたしを強く揺さぶる。「夕凪の街桜の国」はそれを簡潔に切り取って表現したすごい作品だった。わたしはこの作品に出会えたことを感謝する。
わたしは広島とはなんの縁もない。でも広島弁を読むと強い郷愁を覚える。それは小学校のときに出会ったひとつの作品による。「夕凪の街桜の国」と似たスタンスで「ヒロシマ」を描いた児童文学で「青葉学園物語」のシリーズ。大人になっても繰り返し繰り返し読んだ。原爆で親を亡くした子どもたちが集まる学園での子どもたちの日常の話。元気でいたずらでいつも走り回っている子どもたちが、パチンコの看板の「パ」のところをはずして遠めに見たら・・・なんてベタな話で大笑いしたり、みんなでチームを組んでくず鉄を拾ったり、こっそり食料をくすねて宴会を開くのをおねえさんに見つかってしかられたけれども見逃してもらったり、というような日常生活をいっしょにワクワクと体験しながら時にどうしようもない悲しい場面があったりして、そんな時、ああこれは戦争が原因なんだと、作者は「戦争が悪いんだ」みたいなことはひとことも言わないけれど、戦争は悲惨なんだということがわたしの心に染み出てきて溜まる。何かを伝えたいときに声を大きくしてお題目を唱えても無駄だけど、誰かが真摯に自分と向き合ったときに現れるものはそれに触れる他人に必ず何かを感じさせるんだと教えてもらった作品でもあった。