「歩兵の本領」於:紀伊国屋サザンシアター

最近は小劇場に行くことがなくなっていたけれども、久しぶりに行くと臨場感があふれているのが楽しかった。この作品は高橋一生くんが出るというので、単にそれだけの興味で、それ以外は内容にも他の出演者にもまったく興味も期待もなく、実を言うと多分劇については退屈して帰ってくるんだろうな、と大変失礼な予測のもと行った訳だけれども、予想に反してとてもおもしろかったし、いろいろと思考が刺激されていい時間を過ごした。
内容は'70年代に自衛隊に入隊した若者の青春グラフィティーってとこなんですが、いきなり国旗掲揚と国家斉唱から始まるし、登場人物はやたらと敬礼するし(って自衛隊の話なんだから当たり前)、見る人によってはどちらにしても色がついて物議をかもすんじゃないかと思うけれども、そんなところでつまづくのはつまらないと思う。この作品は人間存在不変の命題をわかりやすく表すことが出来る場所として、特殊な空間(自衛隊)をうまく使って表現している、その意味でおもしろい作品で、主義や思想を表現しようとしている作品ではないので、そこら辺を間違えない方が受け取るものが多い。時々よくありがちなお涙頂戴チックな展開や心の叫びなんてのもあったりするけれども、過剰に走らないので嫌ではなかった。
的場浩司扮する自衛官自衛隊の存在の矛盾を言うセリフに考えさせられた。いや主張として認めたというのではないんだけど、というか、ここではっきりさせておくと、わたしは軍隊についてや平和憲法に関してや、その辺のことにはなんら意見を持ち得ません。何とも言えない今の時点では、としか言いようがないのよ。わたしはあらゆる主義や主張は「どっちもどっちやん」と思ってしまうし、そりゃ、戦争がなくて平和な方がいいに決まってるけど、でも起こることは全て人間の内からのことだと思うから、それをないものにしようという「戦争反対!」の主張には無力を感じる。そして「今の時点で」という注釈がつくのは、わたしがどんな形であれ、戦争の当事者になった時には何かの形で意見をもつだろうと思うということだ。結局は意見は当事者にしか持ち得ないと思うので、それを主義や思想として他人にも当てはめようとするところに違和を覚えるということです。
意見ではなく、考えたことというのは、自衛隊という歪んだ形で存在する軍隊ともいえない軍隊、その矛盾を考えるとき、ああ、軍隊も在るんだなぁと。わたしの考えでは在るものはそれが在るという時点で在ることを既に許されているのということなので、ならば軍隊であろうがなんであろうが既に在るんだから在ることを許されているんだなぁと。それがどういう意味なのかは「わからない」としか言いようがないし、わからないから考え続けるしかないんだけれども、戦争も、悪も善もすべて在るんだよなぁ、在るという意味のおいては同等なんだよなぁと思う。全てが同じ地平に在るんだと感じるときのこの不思議な感覚はなんとも深いものなのだった。別に戦争や暴力に苦しんでいる人をわたしは関係ないからと放っておけばよいと言いたいわけではないのよ。でもだから何をどうすればよいのか…この日常において考えつめていけば、結局はわたしはわたしの日常をコツコツと生きるしかないと思う…。
舞台を観ていて思った瑣末なコト。最近の若者はピシッとした制服が似合いませんね…。線が細いからだと思われます。特に腰からケツにかけてが薄い。いやベツニ、わたしは制服に何の思い入れもないですけどね、何だか決まらないなぁと思ったことであります。
お目当ての高橋クンについて。10年くらい前にNHKのドラマで初めて見てファンになってから気がつく限りチェックしている。月9で主役を張って大ブレイクというタイプの役者ではないけれど、いつもいい味を出しているなぁとあたたかく見守っております。といいつつ根を詰めて追いかけているわけでもないので映画出演などは見逃しているようで「KILL BILL」に出ていたのも知らなかったし「半落ち」での演技が評判だったとか何とか、DVDでチェックせねばと焦っていたりするのでした。
舞台に行くまで知らなかったんだけど原作が浅田次郎さんだそうで、会場でも文庫本が売っていたので買おう買うまいか悩みつつ、家に積んである本がいっぱいなのでとりあえずやめてパンフだけ買いました。そのうちきっと読むべし。