名前の話

まだ結婚するとかしないとかそんな予定もない頃に、結婚したら自分の名前が変わることについて考えたことがあった。わたしは「結婚したら旦那さまをサポートするのが女の幸せ(はあと)」というタイプの女性では全くなかったので、当然のように「なぜ女性であるからというだけで名前を変えなければならないのか??」と思っておりました。しかし一方で出来るだけ世間との摩擦を避けたいとも思っておりました(世間に対して異議を申し立てるほど、世間的なことについてこだわっていなかったというのが、振り返ってみると実のところなんでありますが)。
それで異議を申し立てずに、自分も疑問を抱いたままストレスを感じないために、自分で納得できるように考えてみようと。
まず、わたしは名前に何を見出しているのか。たまに聞くのは「名前もまたわたし自身であるのに、それを外圧によって変えるなんて」という意見。…。
わたしは名前か? う〜ん。名前はわたしであるとはいえ、名前がわたしではない。名前が変わったからといって、わたしが損なわれることってあるのかな? よく考えるとないかも。
名前とは? 端的に言えばわたしの呼び名なんだよなぁ。それだったら。ここでひとつ思いついたのはわたしの呼び名はそのときどきによって変わっているではないかということ。だいたい、親しい人って本名をフルネームで呼んだりしないよねぇ。そのときどきに呼び名としてのあだ名があった。今でも小学校時代の友人はその時のあだ名で呼ぶし、中学、高校、大学、それぞれにわたしの呼ばれ方がある。だったら結婚して姓が変わっても、その程度のことだと思っておけばよいかと、ぱあっと目の前が明るくなるように自分で納得したのでした。
当然、名前に強い思い入れをもったり意味を見出している人もいるだろう。実務上に不便をこうむる人もいるのだろう。でもわたしはそうではないことがわかった。どちらにしても、わたしにとってはわたしがわたしであるという意識について、名前はそれほど重要な要素ではない。名前だけではなく、女性であることも、人間であることすら、付随する要素のひとつでしかない。わたしはわたしだという感覚が全てを凌駕する。わたしとは何か? 説明は出来ない。しかしはっきりとした感覚は在る。この感覚を頼りに考えることが、いろんなことをわたしの人生においては解決する。
もちろん別姓でなくてもいいやと思ったからといって同姓を維持しようと思っているわけではない。わたしには「家族」とか「家」に対する思い入れもない。「わたしはわたし」という感覚に従えば当然のことだけれども。もちろん夫や親兄弟に対する思い入れはあるよ。でもそれは今そばにいる人間への思い入れであって、観念上の形に対してではない。同姓でも別姓でも、世間の形にいちいち逆らうほど意識が向いていないから、今ある形に従っておけばよいやという具合。
ま〜名前についてはオチがあって、結局、結婚しても、わたしの姓はそのままで変わらなかったんですけどもね。思いがけず。