「ホットロード」

近くの喫茶店紡木たくさんの「ホットロード」があった(昔の版の4巻−最終巻−だけ)ので読み直してみた。結論から言うと漫画表現としてすごい作品だったのだなぁと思った。平面に空間の空気感をみごとに表した画面の連続だなぁと。枠線がところどころなかったりする白い画面に細い線で、陳腐な言い方だけど心を込めて静かに丁寧に風景や人物が描かれている。放課後の人が引いた教室で先生と主人公の女の子がふたりで居る。いろいろと話す先生の前でボンヤリと窓の外を眺める女の子。聞こえてくるグラウンドの運動部員の声…、みたいな場面の表現が秀逸。
わたしはこの作品が雑誌掲載時にリアルタイムで高校生で、その頃に読んでいたけど、内容について別世界だったので共感することはなく、むしろ、ああいう世界が世間に持てはやされることについての憤りが強くて*1それならば嫌いな作品だからと無視できたらラクチンだったんだけど、どうも無視できずにイライラしていた思い出があり、大人になった今、一度読み返してみたいと常々思っていたところなのだった。そして読み返した結果、無視できなかったのは、表現の高い力に惹かれていたのかなと思うわけであります。それで、あの世界に共感できる人があのリアルさで描かれているのを読めば、それはハマルわなぁと納得したり。
今でも暴走族は大嫌いだし、主人公の女の子が母親のことを「ばばあ」と言うのを読むたびにイラっとくるんだけど、それでも、表現の完璧さにドキドキして、女の子の一途な恋の心を追いかけていると涙が出てくるし、記憶と違ってラストが希望に満ちたものだったのもよかった。長年ひっかかっていた作品を認めて受け入れることが出来て幸せなある日の午後でした。
ああいう現場の空気感の表現って実はこの人が先駆者なのかなぁと長年少女漫画を読み続けてきて思い返して思う。というようなことはこの作品を評価している人の間では既に当たり前の認識なのかな? わたしは今回、個人的にそう思ったわけなんですが。
わたしは学校とは上手に折り合いをつけて生きてきた。というよりも、反抗する理由がなかったのよねぇ。思うに、だいたい学校の枠組みとぶつかる要因ってさ「ファッション」なんじゃないのかと思うんですよ。文字通り、服装。その点、わたしはファッションに関するセンスが欠けていたために興味もなくて。その上、成績もそこそこよかったから学校生活でスポイルされる要因はあまりなかったのだよねぇ。それにね、再三言うように生来の痛がり怖がりだったので死ぬかもしれないのにバイクに乗るとかカッコいいとは思えなかったし、奥手だったので異性問題で大人とぶつかることもなかったし。書いているとなんだか淋しい青春だったような気もしてきた…。
「死ぬかもしれないのに…」に関してはむしろ大人になった今は、そういう気分もわかるようになった。でも暴走族は嫌いだ。うるさいんだよ〜。時々。夜中に。迷惑じゃっつうの。

*1:ま〜愛読していたのは白泉社系だったし。でも漫画の形態をしたものが目の前にあればそれがコロコロコミックでも読むような頃だったので、機会があれば集英社講談社も読んでました。