死を思う

死について悩んでいた時期はあった。いわゆる青春の命題のひとつですな。「わたしはどこから来てどこへ行くのか」「わたしとは何か」、そういうヤツです。そして生来人一倍の痛がり怖がりであったわたしは死を異常に恐れていました。「死ぬのが怖い」「人間はいつか死ぬのに、なんで生きているのが楽しいなんて思えるんだろう」こういうことをおおっぴらに語り合う雰囲気がわたしの周りには無かったので、押し込めて押し込めて生きていた。でもそれは生存に関わる根本的な疑問であり恐れであるので、そのまま無視するわけにもいかず、わたしの青春時代は不安定でくら〜い日々だったわけなのです。
あるいはこういう時に人は宗教に答えを求めるのだろうけど、わたしはどうしても宗教へ向かうことが出来なかった。信仰している人は悩みは神様に預けて「信じたら救われるよ〜」と語りかけてくるけど、わたしはその一歩目の「信じる」という行為をどうしても出来なかった。だってさ、ひとつを信じるということはそのひとつに全てを預けるということだから、そうしたら、その他はどうなるのか? 厳然とこの世界に存在する他の宗教なり考えなりに目をつぶるということがわたしにはどうしても出来なかった。その当時、信仰がある人が憎らしかったな〜。わたしだって何かを信じたいよ。だけど何を信じたらいいのかそこの時点で右往左往しているのに、さわやかな顔で寄ってくんな〜! 自分には出来ないことを成しているという妬みとなんでひとつのことに全てを預けるなんて真似が出来るのかがわからないという恐れが無い混ぜになって、宗教そのものに対する嫌悪となって全ての宗教から遠ざかる結果となった。
それで、ある時期に、しようがないからとうとう自分で考え始めた。いわく「何でわたしは死ぬのが怖いのか?」
考え詰めて解ったことは「死んだらどうなるかわからないから怖いのだ」ここでひとつ気が付いた。「でもそしたらわたしは生きているということは解っているのか?」わたし、毎日、なんで生きているのか解らへん、何のために、何がこんなに、何なんだいったい!と思いながら生きてるやん、でもとりあえず日々、生きていることは確かで、ならば人生において「死」が必ずやってくるという意味においては「生」がここで確かなのと同じように確かなわけだし「わからない」から怖いというのは何かが違う、とはっきりと思った。それに、生きているとたまには楽しいこともあったりするし、死ぬことが悪いことばかりだという証拠も何も無いんでは?と思ったり、どちらにせよ、決してわからないことを闇雲に怖がっているのはおかしいということだけははっきりと解って、以後「死」について悩むことがなくなった。そしたらぱぁっと楽観的で楽しい人生が始まったかというと、そういうわけでもなく、あいかわらずうだうだと人が思わないようなことを思う日々なんですけどね、それでも根本の部分で得心がいっているので触れることもかなわないほど過敏な状態というのはなくなった。わたしの青春が終わりを告げたってことなんでしょうね。もう随分と前のことですが。大人になるって素晴らしいと思う日々なのでありました。