永遠を見る

trikal2005-05-27

海辺で拾ったものを飾ってみました。貝殻も良い感じなんだけど、波に洗われて丸くなったビンの破片に心惹かれます。もともとひかりものが大好きなので。
ホントのところを言えば海よりは山が好き。もっと好きなのは湖。広がりに果てが無いということは不安を誘うから海を見ていると落ち着かない気分になる。まさにそのことに快感を見出す人もこの世の中には大勢居ると思う、というか、そういう価値観こそがもてはやされているように思え、わたしの劣等感の源になっていた。でも裏を返せば果てが無いとはどういうことかをわたしは知っているからこそ、その状態が怖いのだということも最近はわかるので、そしてそれを知っているということがわたしの力でもあると思うので、もうそのことで悩んだりはしない。
今、この瞬間、何がしたいか?何でも好きなことを言ってみ?と問われたら、わたしの答えは「何もしないこと」なのね〜。だからわたしは自分をものすごいグ〜タラな人間だと思い、卑下していた。これに関して友人に「ほんとにぐうたらな人間は自分がぐうたらだとは思わないし、ましてやそれを卑下したりしません」と言われて、ならわたしのこの無力感ってなんや?と考え始めた。それで最近気付いたんだけど、実はわたしが本当にしたいことは絶対に出来ないことだと知っているからなのかなぁと。わたしが本当にしたいこと。「世界の全てを知りたい」「この世の全ての本を読んでしまいたい」ものすごくおこがましいけど、実はこれに尽きるのだ。
わたしは旅先でも本屋があればふらふらと入ってしまうほど本屋が好きだけど、実は本屋は不安な場所でもあり、好きな場所が不安ってのはけっこうつらいもんです。何が不安かというと、ここにある本を、一生かかっても絶対に読み尽くすことはでけへんのや〜と一歩入ると思うわけ。読んでない本が、あ、あっちにも、こっちにも、あれもこれも、うわぁぁぁぁ。って、好きなことですらそんな雑念が入るので、何事も落ち着いて出来たためしが無かった。そして自分の欲求を満たすってことについて不器用で、いつも結局は自分が望まないほう望まないほうへ向かって行くという自虐ぶり。
最近はそういう自分の空回りについて認識できたので、いちばんの望みについては横に置いといて、今、ここに在る、喜び、快感、を見つめることに精を出すことにしています。その効用か本の飛ばし読みが出来るようになったので随分ラクチンだわ〜。以前は読み出したら最後、一字一句漏らさずに読まねば(一個でも読み飛ばしたら世界を取り零していることになるからね)という強迫観念に支配されて大変だったんだけど、最近は読んで面白いと思う部分だけを読んだり出来るようになった。まぁ考えてみたら、世界の全てを読み尽くすことが出来ないのが明白なら、実は何を読んでも同じことなのだし、それならば自分が面白いと思うものを探すのが効率的だし、ここにいて、あっちを向いているのも非効率なわけで。そして出会ったものを大切に一心に向き合えばそれが全てに通じるんだろうなとも思うようになった。これが一期一会を大切にするってことなんでしょうかね。
湖が好きというのは昨年の夏に北海道に行った時にはっきりと知った。以前から小さな湖の湖畔に立つと落ち着くわぁと思っていたけど、その訳がそのときにわかったのよ。湖には全てがある。水も緑も。それも見渡せる範囲に。世界を一望にしているという感覚がわたしの本当の望みをそれが錯覚であってもかなえてくれるということなのかと思うのでした。
なんだかとりとめなく書きましたなぁ。