「オニババ化する女たち」三砂ちづる

2004.12.14の日記にも少し書いたけど、この本にいたく感動した。わたしはこの本に書かれている「今60代から70代の母親に育てられた20代から40代の子ども世代」にぴったりとあてはまる。そして、わたしに関して言えば、この本で問題とされていることはそのままわたしの人生の問題だった。それがどういうことなのかということがこの本ではわかりやすく書かれてあり、しかも、それが個人の資質によるとばかりは言えなくて、世代や時代の歪みに自分がちょうどはまっているのだということがわかったので「わたしがきちんと生きられない」と個人的に否定的な気持ちをつい持ってしまう自分の救いになった。もちろん、それがわかったからといってすぐに自分の問題が解決するわけではないのだけれども、それでも何かが「わかる」ということは救いにはなるし、喜びをもたらす。これはわたしにとって善い出会いだった。
それで、この本に関してはいろいろと反響があるのですが。その反響に対する違和感をもって感想とします。
まず、この本を「ジェンダー」の視点から批判している意見がある。でも、この本はただ身体の話をしているだけで、そこらへんのことを混同すると、否定的な意見になってしまうのではと思うのだけれども。女性には子宮がある。そして子宮があるから出産という体験をすることが出来る。これは明らかに目に見える事実で、それ以上でもそれ以下でもない。でもその明らかな事実を昨今ないものにする風潮があり、それが問題ではないかと言っているだけで「女は女らしく、家に引っ込んどれ」とかそんなこと一言も言っていないと思う。
人間が幸せだと感じるのは自分がそこに(ここに)在ると認められるということに尽きる。だから在るものを在ると認めてきちんと向き合うことは幸福へと至るいちばん近い道で、女性ならば自分の体が女性としての特性を持っているということがどういうことなのかということにじっくりと向き合うことは幸せなことであるはずだ、なのに昨今、そのもっとも根本の事実がなぜこんなにもないがしろにされているのだろう、というのがこの本による問いかけなのだと思う。
人間の存在には精神と体の両面がある。そして体が女であっても精神の側の女性性が薄いという場合も人間としてはある(というか、事実、わたしがそうです)。でもだからといって体が女性であるという事実を否定する理由にはならない。わたしが時代にずっぽりとはまっていたなぁと思うのは、わたし自身が精神性においてはわりと女性性が薄い(そしたら男性性が強いのかというとそういうことではなく、なんだか性別がなくて中性な感じ)上に、女性性に限らず身体性を重要視しない環境で育ってきたのだなということがこの本を読んでよくわかり、だからますます自分が女性であるということを軽視し、むしろ否定して生きてきて、それが自分に対する否定につながっていたところがあったなと納得したわけなんだけれども、人間は人間として個人の特性において、社会的には男のように振舞うお母さんがいたって構わないわけで、女は子どもを生んで家にひっこんどれと言っているのではなくて、なにはともあれ、体が女として今、ここにあるんだということも無視しないで見つめよう、そしてそのために出産がいちばん大きな体験であり、体験できるなら何をおいても体験したらいいよ、そして、生み育てるという行為を行うときにはどうしても外へ出るということが制限されるけれどもそれを否定することをもう一度考え直して、あえてその制限を引き受けることで見えてくるなにかが必ずあるはずだ、ということをこの本は言っているだけだと思う。
あるいは、そこのところを必要な時期にきちんと向き合って、よく考えた上で、意志と覚悟をもって「生まない(女性としての体を生きない)」人生を選択する、あえてわたしはすべてを捨てても外へ出て行くのだ、というまさに人間的な選択(意志の力で自然を凌駕するのは人間が人間である由縁である)を著者はまったく否定していないと思う。ただ、そこをきちんとクリアにせずに、漫然と人生を過ごしていくのはよくない、それぐらいならば何でもいいから結婚をして子どもを生んでみてはどうか、と、これは誤解を受けやすい大変過激な発言ではあるけれども、わたしは自分の個人的な体験から言っても、正しい意見だと思った。
それに、著者は「子どもを生まないと人生の真実は理解し得ない」とも言っていない。人生の真実とは自分がこの世界に受け入れられたと実感することであり、その体験を基礎として、自分もまた他者を受け止めていくことだ、と言っているのであり、それはいろんな形で体験できる。だって、著者の言う光に包まれるような至福感とか自分の内と外の境目がなくなる感じ、すべてとつながっていると感じる、とか、芸術方面では当たり前の体験ではないですか? でも、出産、子育ては特別な場合ではなくこの日常においてそんな至高の体験を得る機会であり得るのだから、出来るのにしないなんてなんてもったいないという話をしていると思う。
とこうくると、子どもが欲しくても出来ない人を否定するのか、という話になると思うんだけど、それも違う。著者も言っているけれども「子どもが出来ない」というのは「子どもを生もう」という選択の末に出てくる結果なんです。だから、結果不妊で子どもを持つことが出来なくとも、自分の体と人生を見つめる機会を持ったということには変わりがない(もちろんそこに何を見るかは個人にゆだねられているわけだけれども、それは出産子育てだって同じでしょう)。それに、わたしは人間は体験を経験として共有できると信じています。人間はきちんと対話することで他人の体験を自分の体験として共有できる。それを経験というのだと思う。でも、認めるべきものを否定しているような状況の中でそれは出来ない。そんな状況は生んだ人にとっても生めなかった人にとっても不幸だと思う。
というわたしは結婚して子どもを望んで、恵まれず何年か不妊治療をして高度生殖医療の範囲まで試してもダメで、子どもを持つことをあきらめました。でもわたしはこの本を読んで自分を否定されたとはまったく思わなかった。今でも小さな子どもを近くにしたりすると「ああ、わたしはこのちっちゃくてすべすべのほっぺを四六時中触ったりする機会は与えられなかったんだなぁ」と淋しさが心に食い込むことはあるけれども、それでもわたしは出産育児とは違う形で人生の真実や幸福を追求していくことは出来るだろうと思っているので絶望したりはしないのです。この本に言う「斜めの関係」も目指したいし、機会を作って出産育児をしている人の話もじっくりと聞きたい。夫婦も仲良く。極論を言えば、これからいつわたしが死んでも誰も困る人はいないんだし(もちろん悲しむ人はいてくれると思いますが)、何をしてもただただ自分だけのことなんだなぁという開放感は、ずっと長い間「死」を恐れてちぢこまって生きてきた痛がりで臆病なわたしにとってはひとつの地平が開けた気分なのだった。
あと、著者が大学の教授であるからか根拠やデータも示さずにいい加減なことを言うトンデモ本だという意見も見かけたけど、この本についてそういう批判が出るのかぁと意外に思った。わたしが読んだ限りでは、これは学者の論文ではなく、どちらかといえば文学的なエッセイというべきものなのではと思ったので、データ云々言われても、と違和感を抱いた。つまり万人に通じる観念や情報を集めて普遍を形にして伝えようという試みというよりは個人が世界と対峙した時に直感的につかんだこの世界の姿のひとつの形を自由に語ったものだと捉えたということなんだけど。まぁ著者の立場が立場だけに、またいろいろと議論を生みやすい類の問題を語るにしては少々勢いがあり過ぎなのかな、と思わなくはないけど、わたしはすべての表現をレトリックとして受け取ったので特に不快感も抱かず、むしろ文学的に言えばこの程度の言葉の使い方は特に目新しくもないのではと思ったりしたのだった。
以上です。