オーラの泉

先日のスペシャル以来「オーラの泉」を見ている。美輪明宏さんは昔からファンなんだけど、江原啓之さんは今回初めて見て、魅力的な方だと思った。
この人の何が魅力的かというと、なんだかわたしにはよくわからないけれども、特別な能力を持った人らしい。しかし、この人を高くしているのはその能力ではなく、人にはない能力を持ちながらあくまでも一般的、常識的な見識で他人に向かってものを言う態度だと思った。
自分にはオーラが見える。霊が見える。そこで止まると、いかに見えるか、それがどういうものか、を説明したがり、理解しない人を退けたり、自分が特殊であることに価値を見出そうとするという態度にでると思うけど、この人は、特殊な場所からそれがこの世界にとってどういう意味をもつのかを真摯に孤独に考えつめた過程をきっとお持ちなのでは?と思う。そして常識の世界へ帰ってくる。その時、人は普遍に至るんだろうなと思った。
個人的なことを言えば、わたしは、霊に関する感覚が一切欠けているんだなぁと。見たことも感じたこともない。江原さんを見るまでは、霊に関することには胡散臭さしか感じなかった。でもそれって、わたしが感じられないことを人がことさらに騒ぎ立てることに対する胡散臭さ、だったのかなと。わたしにはわからないけれども、そういう事実があるらしい。
それって、自分を省みて言えば、文学についてのリアリティをわたしは判るので、いつも「架空もまた在るのに!」って歯がゆく思うけれども、わからない人にはわからないというのと同じなんだなぁと思ったり。あと、わたしには直接理解できないけれども数式で表すこの世界の見え方があるらしい、という感覚とも同じかな。
そうすると人間同士、それぞれに持つ五感(六感)すら違うのならば、理解しあうのは不可能か?ということになってしまうけど、わたしは理解しあうことは可能だと思う。個々にバラバラの個人をつなぐのはそれぞれの感覚の中で真摯に人生に向き合った結果得る普遍の感覚なのだと思うので(そうして、わたしは江原さんを理解し、江原さんを通じて見えない霊の世界を間接的にではあっても認めることが出来たわけだから)。普遍の感覚って何かって、やはり辛さや痛みに、ときには快楽にすら耐え、ひたすら日常をキチンと生存するということに尽きるのだと思うのでした。
転生や輪廻の思想に関しては、わたしは霊とは関係ないところでいろいろと考えていて、今までは霊関係の方の使い方を「間違っている」と思わなくもなかったけど、同じ単語を違う用語として使用していると思えばよいのかなと思ったりするわけでした。
ん〜。でもわたしは死んだらそれっきりにしたいなぁと希望…。死後もこの生の文脈の中で在るんじゃせっかく死ぬのになぁと思ったり。死後は生の苦しみだけが抜け落ちて安寧と在るといわれたとしても、結局は地続きなんだったらなんだか都合よすぎて論理的に納得いかない。現世で苦しいのは前世の因縁というのは現世を考えるのにわかりやすくて方便としてはよいと思うけど、わたしが考える輪廻あたりからすると局地的というかなんとういうか。いやいや、江原さんがおっしゃっているのはそういうことではきっとないと思うけど、そういう風に思考が止まってしまう場合もありそうな気がして。とはいえ死んだらそれっきりっていうのも単なるわたしの希望であって、事実ではないし…ああ、こうしてどんどんぐだぐだになっていくのであった。