東寺の五重塔

今までは、人の手が入っていない風景とか植物とか日常で目にすることがほとんどない生活だった。現在、房総半島の太平洋岸に住み始めて、お散歩するのに海辺を歩いていて知ったのは、自然のものに接すると思考が緩やかに凪いで心が落ち着くということ。今さらだけど実感した。波が寄せて返すのを見ていると時間を認識することがなくなる。あれやこれや、日常の細かなことから存在論のレベルの試行錯誤まで、わたしの頭の中は常にうるさい。それが一瞬のうちに凪ぐ。出不精していないで、毎日お散歩したら心にも、むろん体にもいいよなぁと思いつつ、こうしてパソコン前で過ごす時間ばかりが増えていくわたしなのだった。何の話や?
それで、GWの京都帰省中に東寺へ行った。京都といえば必ず出てくる五重塔がある寺です。春の特別観覧期間中でその五重塔の中に入れるというので、張り切って行った。てっきり塔の階上に登ることが出来ると思っていたら入り口からちょこっと入って終わりだったのでガックリだった*1けど、久しぶりに間近で見る五重塔はうつくしかった。人の心が描いた形が人の姿をはるかに越えた大きさで1mmの狂いもなく出現させられている。1mmの狂いもなくというのは建築上の狂い云々ではなく、そこにそれが在る状態としてそうあるべき形に狂いなくということなんですが。
砂利の上で佇んでしばし見惚れながら、この感じ海で波を見ているときの感じに似ているなと思った。初めはこの完璧な形をこの大きさで作り出した人間の精神の力というものに思いを馳せつつ感動していたのだけれども、この建築物には人間の激しい意図というものが感じられない。これだけの大きさの完璧な形を造るためには強い意志が必要とされると思うけど、出来上がったものにはそれが現れない。ただそこに在るように造られたものは自然に在るものと重なる、だから波と同じ感じをうける、ということかと。でも仏教建築物なのだから造る時に人の意志が介在しない(ただ自然物を目指して造られるわけではない)はずなので、つまり人の意志が結果自然のほうへ向いているのが日本の思想だったのかなとか、そんな今さらながらのことを、でも自分の思考の流れの中で実感したりしたのだった。

*1:きゃ〜。何気にはてなのキーワードを見たら、仏教建築の五重塔は吹き抜けで上層に登ることが出来ないものなのだそうな。教養のなさが露呈されております